――では、その《吾》といふ《念》は何故に此の世に《存在》する事を強ひられるのかね? 例へば《吾》といふ《念》が何にも先んじて《存在》しちまふその因は何なのかね?
――因業さ。
――ふっ、因業ね……。すると、《吾》といふ《念》は、宿主が替はる事で変態すると思ふかね?
――さて、例へば《吾》といふ《念》が変態するとしてもその変態した《もの》が再び《吾》といふ《念》でしかないとするならば、《吾》は如何様に変態しようが、結局の所、《吾》は《吾》でしかありえず、《他》に変態するといふ夢を見るしかないといふ事だ。
――つまり、《吾》といふ《念》は此の世の始まりであり、そして、終はりでもあるといふ事かね?
――或る意味ではさうだ。而も《吾》が《吾》である以上、《神》すらも最早どうする事も出来ない、へっ、或る種の地獄に棲まふ事に匹敵する不合理な此の世に、《吾》は、徹頭徹尾、屹立しなけりゃならない事を「先験的」に強ひられてゐるんだぜ。
――しかし、科学は此の世の開闢を「先験的」とは看做さず、また、看做す筈もなく、論理的に語り果す事に勤しんでゐるぜ。
――へん、それが出来るのであれば、やってみるがいいのさ。それでも《吾》といふ《念》の因縁は解からぬ筈だからな。
――何故にさう言ひ切れるのかね?
――何故って、未だ嘗て《吾》に関して語り果せた《存在》は此の世の全宇宙史を通しても皆無な筈だからさ。
――つまり、此の世に最後まで未開のままとして残されるのが、この《吾》かね? 脳科学でも精神分析学でも心理学でも、《吾》といふ《念》を解明するには荷が重過ぎるといふ事かね?
――先にBlack holeが脳に似てゐるに違ひないと言ってゐた筈たが、さうすると、Black holeの内部構造が解かれば、《吾》が宿るこの脳の何たるかが、つまり、頭蓋骨の闇の脳といふ構造をした《五蘊場》の何たるかも解明出来るのぢないかね?
――莫迦な! Black holeの 内部構造も脳に関しても既に研究は驚くほど進んでゐて、脳に至っては電極を頭蓋内に埋め込んで絶えず脳の或る野に刺激を与へて、例へば、鬱病の治療に取り 入れているんだぜ。だからと言って、《吾》に関しては未だ何《もの》も語り果せず仕舞ひなのさ。勿論、将来、この《吾》といふ《念》の何たるかが解明され る可能性は残ってゐるが、さて、それを語り果せるだけの語彙を《吾》は持ってゐるかは甚だ疑問だがね。
――ならば、この眼前の《パスカルの深淵》は何故に《存在》するのかね?
――さっき言ったぢゃないか、「黄泉がへり」だと。そして、絶えず《吾》が飛び込むのを待ち構へてゐるBlack hole状の、若しくは、蜘蛛の巣状の、若しくは蟻地獄状の何かだと。
――《吾》を映す《吾》の鏡ではなかったのかね?
―― それは《吾》が或る宿主に宿った場合のみの事で、《パスカルの深淵》はさっきも言った通り、絶えず《吾》といふ《念》を生み出してゐる女陰の如き《もの》 さ。その場合、男根の如く精虫を女陰へと運ぶ《もの》が必要となるが、それが、つまり、《パスカルの深淵》へと飛び込む《吾》共なのさ。
――つまり、《パスカルの深淵》は《吾》といふ《念》の墓場といふ事かね?
――或る意味ではさうだが、或る意味ではそれは全くの誤謬さ。《パスカルの深淵》は《吾》とは絶えず齟齬を来す《存在》における深淵なのさ。
――え? 一体全体何の事かね? 全く意味不明だぜ。
――つまり、《パスカルの深淵》は《吾》と《存在》の間にばっくりと大口を開けた深淵の事さ。
――解からぬ――。
――だから、《吾》といふ《念》と《存在》は、絶えず不一致を起こしす事によって、《吾》を奮い立たせる原動力を生み出す或る起動装置として、《パスカルの深淵》は、此の世に《存在》するのさ。
――すると、《存在》に対して《吾》といふ《念》は出入り自由といふ事かね?
――ああ、さうだ。《吾》といふ《念》は《存在》に対して出入り自由な《もの》として「先験的」に《存在》するのさ。
(十八 終はり)
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